カリソメだけど愛してほしい

徒然なる日々をつらつらと綴っています。

作曲という創造行為に宿るメシア性

明日で2020年も終わりです。なんら変わりのない日々がダラダラと流れていきますが終わりです。もう紛うことなき終わりです。どう足掻いたって終わりです。そしてこのようにして何度も終わりですと述べることを俗に反復法(リフレイン)と言います。こうすることで 反復した言葉に強い意味を付与することができます。どうでもいいです。この話は終わりです。

 

最近 曲を作ろうとしてもどうも上手くいきません。今まではバンドの為に何かやるぜって感じだったので 頭の中で流れるバンドサウンドを頼りに しこしこやっていたのですが 弾き語りになってしまうとどうも折り合いがつきません。やってられません。

 

曲を作らなくなってから 全てのものが枯れ果てているかのように見えます。美しいものも美しいと感じないし 楽しいことも楽しいと感じることができないのです。こういった側面から 私がしていた作曲という行為には ある種メシア性が宿っていたのではないかと思います。私が誰かを突き動かす 誤解を恐れず言うなれば 誰かを救うために作ってきた曲たちがなんの気もなしに 私を救っていてくれたのでしょう。私の中の美学を形成する一要素として 作曲が大きな役割を果たしていたというのは 揺るぎない事実です。だからこそ 今また私は何かを産み出さなくてはならない。それが例え 恐ろしく難産なのだとしても 腹を痛めてでも やりきるしかないのです。

 

カッコつけた文章を書きぬこうと思いましたが 反吐が出ますね。だってこうしてスマホに打ち込んでいる間も 服に埋もれた真っ白なベッドの上で 死んだように寝っ転がっているだけなんですもの。あー今日中に掃除しないと新年迎えられないよー。創造行為とかに着手する前に 社会性を持った人間として やることやりましょーね。掃除開始します。